原爆と教専寺


護法の碑

昭和20年(1945年)、当時の教専寺門徒総代さまや僧侶ら13名が原爆によってご往生なさいました。

「天神町南組」(現在の中島町~土谷総合病院付近~)にあった教念寺さまが「建物疎開」により取り壊されるので、仏具-御本尊の御宮殿(おくうでん)や須弥壇(しゅみだん)など-を譲り受けるために大八車を引いて草津を出発されたのが8月6日の早朝でした。

仏具を車に積み終えてひと息つかれた頃が、8時15分の原爆投下の時刻であったとの話が伝わっています。

仏法を護るために尊い13名の命がうばわれました。その御恩を偲び、戦争のむごさを胸に刻み、「兵戈無用(ひょうがむよう)」のみ教えをうけつぐために昭和38年に建立されたものです。



被爆建物(本堂)

原爆の爆風によって破れた板壁

爆心地から5キロ離れたこの地点で、厚さ2センチの板を破るほどの爆風が吹いたことを示す証しとして、こわれたままをのこしています。



被爆建物(経蔵)

明治時代に建立された経蔵も原爆に遇いました。

蓮如上人五百回遠忌法要をご縁に、平成16年(2004年)、ご門徒の皆さま、有縁の皆さまのご懇志により修復工事がなされました。

漆喰の白壁の上部周囲には左官職人さんの手による「鏝絵」が施されています。



被爆建物認定

被爆建物(A-bombed Building)

爆心地から4,990m

本堂、経蔵は、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。広島市

 

Name at time of atomic bombing: Kyosen-ji Temple

(Approx.4,990m from hypocenter)

The main hall and sutra repository withstood the atomic bombing on August 6,1945.

The City of Hiroshima



爆心地復元地図

中国新聞社は、現在の平和記念公園周辺、爆心地の原爆投下直前の街並みを2000年6月に地図で復元しました。旧住民・遺族の協力を得て、居住および建物強制疎開(立ち退き)、移転を直接確認した世帯・事務所を復元しました。この地図からは、失われた暮らしの記憶が浮かんできます。

平和記念公園(爆心地)街並み復元図(PDF/7931KB)